top of page

​犬山鍛冶 道暁と道幸について  文責 加藤

 

 

尾張刀工といえば地元で尾府三作と誇称される新刀期の相模守政常に飛騨守氏房、伯耆守信高が有名だが、

焦点をあてられることが少ない尾張新々刀期の刀工の中で、犬山鍛冶である道暁と道幸について調査する。

両名の作風や銘振りについて纏めると共に、郷土刀工についての興味や関心のきっかけになればと考え記録することとした。

​最終的に論考として纏めるが、未だその体を成していない。情報提供などご協力お願い申し上げます。

現在の調査項目、目標

・銘の特徴

・両名の写真、正確な生年月日 (門十郎道幸の生年月日判明2023.8.26)

​・村久野にあるという松川乙吉墓にある墓碑 (墓碑発見2023.9.2)

・成瀬家の評価

・道暁の名前について 喜右衛門、喜刀、圓右衛門

​・道幸の作成した農具の現存について

​  追記追記で記事が長くなって読みづらくなったので、主要記事に飛べるようにしました

  道暁の作風と作品    

  道暁の師事

  道暁の銘について     

  道幸の作風と作品

  道暁道幸の合作

【道暁について】

道暁・大島圓右衛門は明治三十年(1897)十二月二十八日に八十八歳で亡くなっていることから、生まれは文化五年~六年(1808~1809)と推定する。犬山市大字犬山南古券(現在の外町)先聖寺大門北角に居住し作刀する。

犬山市西図師町専念寺に葬られており、戒名は「幸誉徳道居士」。*1

霞刀苑梅月号 「尾張国犬山刀匠道暁及道幸について 斉木保」1964

上記書籍で道暁のことを大島喜右衛門としているが大島圓右衛門の誤りである。

また、『犬山里語記に道辰という銘鍛冶犬山に来たりて日比野道春に於て鍛造針綱神社に奉納するとある』と紹介している。

これについても道春という刀工は確認できず、下記の参考資料からしても道俊の誤りである。

犬山里語記全 謄写版 愛知県丹羽郡犬山尋常高等小学校

『一 御脇差 奥州會津住人中條藤助 道辰と云銘鍛冶犬山に来りて日比野道俊におゐて鍛之奉納』

犬山里語記 名古屋市史資料

『一 脇差 奥州会津住人中条藤助道辰と云者犬山に来りて日比野道俊におゐてきたひ奉納』

春霞刀苑(1964)をもとに会津若松市史第11巻(1967)が、会津若松市史をもとに刀剣と歴史523号(1981)が喜右衛門、道春となっている。

犬山市資料第三集(1987)犬山刀匠名列記では『道暁 大島圓右衛門 文政、天保』としている。*14

【道暁の名前について】

道暁の名前について、喜右衛門は間違いであり圓右衛門が正しいという説を挙げたが、喜右衛門とする資料が新たに見つかった。

また、後述する門十郎の戸籍にて父「喜刀」とあり喜右衛門、喜刀、圓右衛門という3種の名前については今後の調査が必要。

喜右衛門とする資料は春霞刀苑1964年が古く、江南市村久野にある道暁・道幸両夫婦の墓碑にも側面に「大島㐂右エ門夫婦」とある。

円右衛門(圓右衛門)を使った資料は以下の通り。

犬山市資料第三集1987 犬山刀匠名列記 道暁 大島圓右衛門

柴田菫村 尾北の風土記(年代不明) 大島円右エ門

成瀬美雄 犬山刀鍛冶(年代不明) 大島円右エ門 

また成瀬氏の犬山刀鍛冶の項では「尾張犬山住大嶌円右衛門道暁作之」と銘のある刀が針綱神社に奉納されていると紹介している。

下記②⑯で紹介した短刀と刀には「尾州犬山住大嶌円右衛門道暁作同人奉納」と鞘書きがあり、これのことを指しているのかもしれない。

刀には文政七年、短刀は文政八年の年紀があることから、鞘書きがどちらの作品完成のタイミングで書かれたか不明だが、少なくとも文政七~八年時点では「圓右衛門」を名乗っていたことがわかる。

下の犬山城下町絵図1839で先聖寺の大門北角の圓右衛門を道暁としているが、場所については尾北の風土記にて記載があるものの同名圓右衛門ではないという確証はない。

針綱神社が所蔵するとある円右衛門道暁と銘のある刀を実見することができれば、道暁が圓右衛門(円右衛門)を名乗ったという確実な証拠となる。

そうなると、道暁は圓右衛門から喜右衛門へとどこかのタイミングで改名したことになる。

圓右衛門ーーー門十郎ーーー圓太郎と続く家系の中で圓(円)という字が使われているならば、門十郎も幼少時は圓十郎だったのだろうか。

​圓右衛門が喜右衛門となり、明治の戸籍では喜刀となっている名前の変遷にも、新たな謎が感じられる。

DSC_2132.JPG
2

犬山城下町絵図 天保十年(城とまちミュージアム展示)
​赤丸で囲った部分が圓右衛門

一部山専念寺

専念寺 大島家墓 2024.4

DSC_4894.JPG

圓右衛門道暁の墓碑

専念寺の大島家墓は道暁本家から分かれた道幸門十郎系の親族が管理しているが、専念寺住職によると大島姓は途絶えている。

斉木保氏の「尾張国犬山刀匠道暁及道幸について」では扶桑町に移住した門十郎系として末裔の大島武夫氏を紹介しているが、丹羽郡扶桑町柏森辻田に住した大島武夫氏ならびに息子であろう武志氏が既に亡くなっていることが専念寺の墓誌で確認できる。住職によると現在管理している方は遠方にお住まいとのこと。個人情報につき連絡先は不明。

2023年3月 いろいろな偶然が重なり、大島家ご子孫の方と連絡が取れるようになった。

8月には御施餓鬼に際して親族が犬山に集まり、郷土犬山の地で道暁、道幸両名の作品を鑑賞する場を設けることが叶いました。

門十郎道幸の戸籍取得にご尽力いただき、お互いに知らなかった情報を交換できました。​​

【松川乙吉墓】

 

春霞刀苑にて『江南市大字村久野、道幸の長女嫁入先松川乙吉方の墓地に父親道暁夫婦と共に二夫婦戒名が彫まれたる石碑が有る』と記載がある墓碑について、正確な墓地の場所が不明だったが江南市村久野町中郷にある小村霊園にて発見した。

正面

啓誉哲門居士(道幸・門十郎)

建室智常大姉(道幸妻・もと)

幸誉徳道居士(道暁・圓右衛門)

梅誉貞薫大姉(道暁妻)

右側面

大正七年九月四日(もと) 大正七年十一月七日(道幸) 大島門十郎夫婦

​左側面

明治三十年十二月五日(道暁) 明治廿三年十二月十五日(道暁妻) 大島㐂右エ門夫婦

裏面には「小沢建立」とある。

この墓碑で疑問なのは道暁(圓右衛門・喜右衛門)の没年であり、専念寺墓誌では明治三十年十二月二十八日となっている。

十二月五日という日付はどこから来たのだろうか。

「春霞刀苑」梅月号通巻8号より引用

左側面には 明治三十年十二月五日 明治廿三年十二月十五日 大島㐂右エ門夫婦 とある

小村霊園 松川家墓 2024.4

【もう一つの大島家】

尾張刀工譜には『門十郎系の弟五世の孫は先聖寺南角の現大島栄一氏である。』とある。*2

このことについて先聖寺の坊守さんに伺ったところ、正確な年代は分からないが、少なくとも昭和25年頃には大島さんという方が判子屋を営んでいたとお聞きすることができた。現在その土地は町内会によって山車蔵として利用されている。

​法務局の旧土地台帳、閉鎖台帳を確認すると明治三十一年の記録に大島力之助とあり、その後は大島房子氏や熊崎氏などを経て平成九年に外町町内会の所有となったことが分かった。

5
6

先聖寺を挟んで右側の民家が道暁鍛冶場跡

​左側が道幸系の大島栄一氏の住居跡

神護山先聖寺

専念寺 大島家之墓(大島榮一氏の家系)2024.4

専念寺の道暁および道幸の墓誌がある大島家先祖代々之墓の裏に、大島栄一氏の大島家之墓もある。

そこには「大正九年三月廿九日 俗名 二代大島貞宗」「大正十年三月 大島榮一建之」と両側面に彫られた墓がある。

榮一氏は「賢誉宗栄居士 昭和五十四年九月十日」とあるのが該当すると推定する。

現在管理されているのは榊原氏、瀬口氏とあるがお二人には辿り着いていない。

​奥に見えている日比野家についても、日比野道俊ら犬山鍛冶の関係だろうか想像が膨らむ。

【道暁の師事】

道暁の師事については包重杢右エ門より鍛刀を学び定重とも称したとされるが、定重銘の作品は現時点で確認できない。*3

(鍛冶屋町包重松右衛門ハ生駒氏也、本国大和之国ゟ大坂ニ暫く住して、御陣之後濃州関之文珠四郎をたより関に来り、四郎のさし図ニよって犬山兼常へ来らしむ、于時元和四年戌年也~)

【道辰との関係について】

文化十四年(1817)江戸から成瀬候が犬山へ帰る際に、御家中伊賀乗重に連れられて犬山へ来遊した四代若狭守道辰(中条藤助)が実質的な師とされている。来遊または一時的な居留など期間について確かなことはわかっていない。

犬山里語記では代々農鍛冶だった日比野庄右衛門(六代目庄吉)が息子庄三郎と共に道辰の門人となり道の字を譲られ道俊、息子は伊賀氏より賀の字をとって道賀と名乗る経緯が述べられているが、そこに道暁についての記述はない。

道暁が文化五~六年の生まれだと、道辰が犬山に来た文化十四年は9歳前後、後述の文政七年の脇指は15歳前後となる。

​果たして包重に入門した時間的空白があるのか疑わしい。

犬山城主成瀬隼人正の抱え鍛冶となった道暁は、犬山市大字南古券にて刀剣及び小道具の製作に務めた。*4

道辰之門鍛之と銘のある脇指が文政七年(1824)、この時の成瀬隼人正は七代当主成瀬正壽にあたる。

​成瀬家蔵として、「於尾陽犬山城下奥州会津住藤原道辰作之・正壽公蒙命於東都千住臣伊賀兎毛乗重二ツ朋截断 文政五年八月吉日」という刀がある。

道暁及び道幸両名の活動期間における成瀬家当主は七代当主正壽(文化六年1809~)、八代当主正住(天保九年1838~)、九代当主正肥(安政四年1857~)である。​

括弧内の年は生年ではなく家督を継いだ年。

道辰が犬山に来て初めて作刀したと推測される資料が、特別展 「犬山城主成瀬家の家臣たち」に展示された。

奥州會津住人中条藤助道辰作之  文政元年九月廿五日於千住乗重自乳割雁金裁断之

文化十四丁丑年四月吉日於尾州犬山包重 之旅舎以蘇流之清水鍛焉応伊賀乗重君之需

 

道辰の作品をいくつか紹介する。

「奥州會津住道辰 文政六未年二月吉日 於尾州犬山作之」  岐阜県博物館蔵 

​「陸奥會津住道辰 文政五午年二月吉日 於犬山作」    

「奥州會津住道辰 文政五年八月日   於尾州名古屋作之」 徳川美術館蔵        

「於尾陽犬山城下奥州會津住藤原道辰作之 文政五年八月吉日  正寿公家命於東都千住臣伊賀兎毛乗二ツ胴裁断 」

​上記と同じ刀か不明だが、長二尺一寸三分 於尾陽犬山城下奥州住藤原道辰(文化)   犬山市教育委員会『犬山市資料第三集』

「奥州會津住道辰 於尾州犬山作之 文政六未年二月吉日」 刀剣と歴史529

他にも、「尾陽犬山住道辰作」などの銘がある。  

岐阜県博物館所蔵(千磨百錬 よみがえる赤羽刀/展示)

​刀剣柴田「麗」平成21年2月号より引用

刀剣と歴史529号より引用

【会津の刀工道辰について】

​編集中202408

【道辰門人について】

会津道辰----------道俊(日比野庄右衛門)、道賀(日比野庄三郎)-------道正(松二郎)
    ----------道暁(大島園右衛門)-----道幸(大島門十郎)
    ----------道秋    
-----記号は師事を表す
道辰に直接師事したのは、道俊と道賀親子、道暁、道秋となる。
道正は道賀に、道幸は道暁に鍛刀の術を学んだ。但し道秋については作品資料共に未見で、道賀と同時期に師事したとされているのみ。
道暁の誤字かとも推測したが、時代を元治頃としているため時期がずれること、鍛冶屋町で包丁や草鎌、剃刀を作っていたとのことから別人か。

 

​『天保二年に日比野長助という犬山刀鍛冶が修行のため江戸に出て来た時、乗重の長屋の一角に居住させたいという願いを出している。長助は日比野庄右衛門の子と思われるが、鍛冶名は分かっていない。』*18

​この日比野長助に関しては道義、道秋の可能性を含んでおり、今後の研究にて解明されることを願う。

【道義について】
尾州犬山住道義、尾州日比野道義と銘を切る刀工として道義が尾張刀工譜に紹介されている。(押形などは無し)
犬山鍛冶で道の字を冠することから、道辰系一門と推察できるが、道辰に直接学んだか他の道俊などに学んだかは不明。
この道義については銘に日比野姓を入れることから、道俊や道賀との関係性があると推察する。

日比野道義は少なくとも道辰が犬山に来た文化十四年(1817)以降に弟子入りし、その後薩摩へ移ったとされている。
道義の息子である日比野雷風は神刀流を興しており、現在も活動する神刀流の由来として道義についても言及されている。
宗家である日比野正晴氏のご厚意により、いくつか道義についてお話をお聞きしたので現時点での情報をまとめる。
残念ながら書物や押形などの記録は残っていなかった。

(犬山での活動)
文化十四年道辰が犬山に来てから、いつ頃弟子入りしたかは定かではないが、元治年紀作からして道俊や道暁よりも道賀に近い年代と思われる。犬山打ちは銘文のみで現物は確認できていない。

(薩摩での活動)
薩摩へ渡った理由は不明。
尾張から薩摩へ移った刀工としては天正十四年頃と言われている丸太備後守氏房を始めとし、江戸後期即ち新々刀期には青木元長や八代信高、信近らが挙げられる。尾張と犬山、薩摩の交流関係などは今後の研究が必要。
薩摩藩の為に刀を鍛えたとも言われているが、薩摩打ちの資料は確認できていない。

(埼玉での活動)
数少ない現存作、確認できた作品で甲山打ちがある。
短刀 道義/甲子二月作於甲山
刀 日比野道義謹作於武蔵吉見甲山 元治元年甲子秋分日為信香君/都留支多知以与刀久倍之伊尓敝由佐気九於比帝伎爾之曽能名楚

(大伴家持の和歌 剣刀いよよ研ぐべし古ゆ 清けく負ひて来にしその名ぞ)
少なくとも元治元年には埼玉は熊谷に移っていることがわかる。雷風の生まれが元治元年八月、二歳で父と共に中山道を江戸に上るとされていることと矛盾するが、道義のみ先んじていたのか、一度薩摩に戻って父子ともに移ったのか定かではない。

道義の信香君銘のある刀は新徴組の根岸友山所縁とされており、新徴組の為に鍛刀したことや雷風が友山に弟子入りしたことなど宗家よりお聞きする。道義は東松山の地に眠っており、東松山市の指定文化財で下記の刀が登録されている。
刀 於江府日比野道義

中山道にて薩摩から江戸に上る際や、廃刀令後には包丁などを作ったと口伝が残されていることから、
代々農鍛冶だった日比野庄右衛門(道俊)との関係が一層強く感じられる。もともと道辰に入門する前には農鍛冶だったのか、研究が必要。

刀 源道義 辨慶剣吾藤原正秀帯之 
​源銘の作はこれのみ。駐槌銘があるなかで、これは地名が入っていない。

sales@historyswords.com

Kirill A. Rivkin氏より画像提供

道暁作品一覧

【道暁の作品について】

作品は太刀、刀、脇指、短刀、槍が存在する。

尾張刀工譜によると少なくとも3振りが針綱神社に奉納されている

平成9年の特別展に出品された1振りが錆びた状態と記載され、本稿調査依頼に対しても錆びた状態と修復のための調査整理を理由に断られていることから3振り全てが錆びているとわかる。*5

​また三光稲荷神社にある奉納銘の刀についても、一般に奉納品を公開していないと断られている。

尾張の鐔工である二子山則亮(二代)の作品に「犬山住道暁以鍛」「犬山住人大嶋道暁以鍛」と下地を鍛えたことが分かる添え銘が残されているほか、自身が制作した鐔も残されている。*6

「鐔や小柄を造り、刀身の彫物もある。」と解説されることもあるが彫物や小柄は未見。*7

​鐔の銘は二通り、茎孔を挟んで則亮と道暁の銘があるもの、表裏に分かれて則亮と道暁の銘があるものがみられる。

「二子山住人 岩田則亮作之 犬山住人 大嶋道暁以鍛鉄」個人蔵

特別展犬山の文化財Ⅲより引用

​「犬山道暁君以鍛 延寿斎則亮作」関鍛冶伝承館蔵

「犬山住大嶌道暁 以鍛鉄 二子山住人岩田則祐作之」 関鍛冶伝承館蔵

則亮の鐔下地を鍛えた刀装具は比較的資料が残っているが、道暁が自分だけで制作した作品は稀。

信家の車透かしを写した則亮鐔と似た「犬山住道暁」と​銘のある鐔が犬山市文化史料館にある。

下地を鍛えるだけでなく、則亮から鐔製作について​教わったのではないだろうか。

尾州犬山住道暁 小柄小刀 個人蔵

地鉄はうっすら流れた柾目風の肌で、湾れた刃文を焼く。

「州」「山」「住」の特徴から1840年代の作と推定する。

しばらく新しい作品の発見がなく、調査が行き詰っていた折に

ご厚意で連絡をいただいて購入した。

道暁は鐔以外にも、縁頭などに作品があると言われているので、

いつか出会えることを願っている。(同名 道暁銘の縁頭が存在するが京金工の別人)

天保九年戌十一月吉日 犬山住道暁 小柄小刀 個人蔵

年紀入り且つ錆もない生ぶに近い貴重な資料。

「暁」の最終角が文政頃の初期銘となるが全体的な特徴から間違いなく天保頃の銘と推定する。

​天保9年の作品は今まで見たことがなく、銘の変遷を確認する上でこれ以上ない資料的価値がある。

文献や現物など確認できている道暁の作品(鐔を除き刀剣類に限り、銘文のみで実物は未確認のものも含む)は24振り

脇指と短刀の割合が多い。地鉄は柾目肌がよく詰んで地沸つき精美な肌に締まった直刃を焼いた出来が多いが、板目流れ地沸地景が混じりやや肌立ち互の目を焼いたものもある。双方ともに度合いに差はあるが、腰元に大肌が出ている。

茎の特徴として角度に多少の違いはあるものの全て刃上がりの栗尻となっており、加州茎のように角度が急なものもある。

​道幸に比べると加州茎のような形状は少ない。鑢目は勝手下がり、筋違から大筋違、切りまである。

木曽川水焠之という銘は、天保十一子月吉日とある作品が一番若い。

道暁、道幸以外の道辰一派では未見、作品数が少ないことが理由で実際には存在するのか、道暁親子だけの特色なのか不明。

「尾州犬山住人兼若 木曽川以水作之」という兼若の刀に同様の添え銘がある。加州に移った兼若とは別人。

現在確認できている24振りを銘の特徴順に並べ、実際に手に取って確認したものを青色で示した。

道暁

平造り短刀 刃長25.2㎝ 元幅2.2㎝ 重ね0.9㎝  岩手護国神社蔵

盛岡藩士である中嶋源蔵が切腹に使用したと伝来、盛岡市指定文化財。

盛岡市先人記念館のテーマ展示「ただひとすじに武士の道」パンフレット掲載品

盛岡市教育委員会 歴史文化課に当該短刀が掲載された書籍がないか問い合わせた結果、資料として「新編盛岡市の文化財」を頂戴した。

白黒写真であるため地鉄や銘の特徴、刃文の確認はできないが、解説では沸出来の小丁子乱れとある。*8

他の作品で丁子刃は見られないが、直刃に丁子足交りといった作風と推測される。

EPSON001-2.jpg

盛岡市先人記念館 

「ただひとすじに武士の道」パンフレットより引用

新編盛岡市の文化財 盛岡市教育委員会 より引用

道暁花押  文政八酉青陽半作(鞘書 尾州犬山住大嶌円右衛門道暁作同人奉納)

針綱神社蔵

平造り短刀 刃長九寸九分(寸尺は実物拝見は登録証、未見は書籍等の記載に従う)

針綱神社奉納品で尾張刀工譜に茎押形所載するものの、不鮮明で花押は確認できない。

尾張刀工譜より引用

犬山住道暁

個人蔵、海外の愛好家から画像提供。

平造り短刀 表裏に棒樋と二筋樋、直ぐ調にやや湾れて刃縁が沸づく。

犬山住道暁  文政八酉二月日

鎬造り脇指 刃長36㎝ 反り0.6㎝ 個人蔵

​状態が悪く地鉄は判然としないが柾目肌が確認できる。

素人による研磨の影響もあり、減りが激しく直刃の焼きは横手までで鋒には残っていない。

犬山住道暁  天保十三寅八月日

鎬造り脇指 刃長39.2㎝ 反り0.7㎝

所有者不明 刃文直刃にほつれ 姿は④と似ているが、茎は末備前片手打ちの刀のように太い。

​犬山の文化財Ⅲに掲載、押形のため地鉄などは確認できない。

犬山の文化財Ⅲ尾張の刀剣と刀装具-犬山の刀鍛冶を中心に-より引用

犬山住道暁  天保十三年寅十一月吉日 以木曽川水焠之

鎬造り脇指 刃長46.5㎝ 反り1㎝ 公益財団法人犬山城白帝文庫蔵

調査のため撮影を行ったがここでは掲載しない。

良く詰んだ地鉄で柾目は目立たない。刃文は直刃。

犬山住道暁   以木曽川水焠之

平造り脇指 刃長33.4㎝ 反り0.2㎝ 個人蔵

所有者の方より許可をいただいたので画像を掲載する。

古研ぎでヒケや曇りがあるものの板目肌が立ち、刃文は湾れて帽子が尖り気味に返る。

新しい所有者の方により研磨され、地鉄が鮮明になった。

​板目肌に僅かに杢交り、地景が入る。 刃文は湾れで構成され、匂い口部分的に厚く沸づく。

脇道暁茎1.jpg

犬山住道暁作之

平造り短刀 刃長18㎝ 無反り 個人蔵

所有者の方より連絡をいただき実物を拝見。小振りで茎尻が僅かに反っている。

詰んだ地鉄で柾目は目立たず、刃文は匂い出来の小互の目、所々尖り刃を交え帽子は乱れて浅く返る。

物打ち部分など刃縁が沸づく箇所あり。

犬山住道暁作之

菖蒲造り脇指 刃長32.5㎝ 反り0.4㎝ 個人蔵

所有者の方より連絡をいただき拝見

身幅が細目に反り浅くつき、重ねは極めて厚く重量感がある所謂鎧通しの形となる。

地鉄は柾目肌に鎬地もうっすら柾目が現れ、匂出来の直刃にほつれや小足、砂流しなどが入り帽子は掃きかける。

​銘の「犬」の第二画目が特徴的で、他の作でこうした特徴は現状確認できていない。

尾州住道暁  以木曽川水焠之

平造り短刀 刃長29.8㎝ 反り0.4㎝  個人蔵

柾目肌がよく表れており、地沸が柾目に沿って流れるように厚くつく。

刃文は二重刃や打ちのけが交り、道幸や他の尾張刀の特徴と同じように部分的に刃縁が沸づく。

道暁短3_edited.jpg

尾州犬山住道暁

冠落造り短刀 刃長22㎝ 無反り

犬山の文化財Ⅲに掲載、押形のため地鉄は確認できない。

道幸に多く見られる造り込みであり、薙刀樋に添え樋。刃文は互の目。

犬山の文化財Ⅲ尾張の刀剣と刀装具-犬山の刀鍛冶を中心に-より引用

尾州犬山住道暁  天保十四卯仲秋 以木曽川水焠之

鎬造り脇指 刃長41.2㎝ 反り0.8㎝ 公益財団法人犬山城白帝文庫蔵

調査のため撮影を行ったがここでは掲載しない。

身幅広く、大切先延びる。鎬幅は狭く平地に棒樋を小鎬まで沿って掻いて、横手下まで添え樋が入る。

鎺元に大肌があるが、(他の作品でも確認される)肌が詰んで柾目は目立たず地沸つく。刃文は小互の目。

徳川美術館が所蔵する「伊藤肥後守秦光代  重胴二以其歯タウリ 柳生氏利延所持之」に似る。

刃長も同一の41.2㎝(一尺三寸六分)であり、光代は棒樋に添え樋が2本(二筋)だが本作は棒樋に添え樋が1本。

​伊賀兎毛の手控えの中に「円覚院様御代佐藤源左ェ門差上ル 柳生連也指料之旨」と上述の光代押形がある。*10

尾張徳川家と成瀬家、伊賀乗重との関係が伺える押形であり、道暁の作刀にも伊賀の意見が取り入れられたのだろうか。

当時の当主八代正住は自ら刀の磨り上げ工作を行うなど、刀剣に関する関心が高かったといわれている。この刀も含め木曽川の水を焼き入れに使用したのは当主の意向だったのだろうか。​*19(天保三年八月成瀬正住上之 本銘一文字助房という脇指が存在する)

尾州犬山住道暁  慶應三年八月日

平造り短刀 刃長七寸二分 個人蔵

所有者である海外の愛好家から画像提供。

重ね厚く三ツ棟で鎧通しを思わせる。

肌は詰み無地風となり、直刃調にやや湾れて二重刃が交る。

以木曽川水焠之 尾州犬山住道暁   嘉永四年亥八月吉日

鎬造り直槍 刃長12.5㎝ 無反り 公益財団法人犬山城白帝文庫蔵

調査のため撮影を行ったがここでは掲載しない。

肌が詰み、地沸ついて部分的に柾流れる。刃文は直刃。自身の銘の前に木曽川の水で焼き入れた旨を切っている。

奥州會津臣人藤原道辰之門鍛之   尾州犬山住道暁造之 文政七申二月日

鎬造り脇指 刃長一尺五寸 反り三分 元幅八分五厘

尾張刀工譜などに押形が掲載、解説では「柾目肌地沸よくつく」「直刃丁子足入り刀縁掃掛け金線走る飛焼あり」となっている。

指表の鎬地に棒樋、指裏の鎬地に棒樋、平地に添え樋ないし連れ樋(押形では帽子部分がないため判断できない)。

扶桑町の春霞刀剣会会員が所有していた脇指で、入門時期がわかる好資料。

「春霞刀苑」梅月号通巻8号より引用

「刀剣趣味」通巻59号より引用

尾州犬山住道暁作之  文政七年申二月日(鞘書 尾州犬山住大嶌円右衛門道暁作同人奉納)

 文政十丁亥干年八月吉日御太刀仁奉納

鎬造り刀 刃長二尺二寸九分(69.3㎝)反り1.5㎝ 針綱神社蔵

針綱神社奉納品で、②短刀と同じ鞘書きがあることから同時期に本人が奉納した作品と推定。

犬山の文化財Ⅲなどに押形のみ掲載、掲載時の解説(錆により鍛え、刃文は不明。)や神社への問い合わせから錆びている状態であるとわかる。

​「暁」の銘は④脇指と同様に最終画が「之」のようになる。これについては後述する。

犬山の文化財Ⅲ尾張の刀剣と刀装具-犬山の刀鍛冶を中心に-より引用

⑰        尾州犬山住道暁作之   天保十年亥二月吉日

  国通霊感 熱皇精神 宝刀祈成 家門重鎮 銘焉勅住妙心春応 花押

鎬造り刀 刃長二尺二寸八分 反り四分 元幅一寸一分五厘

江南市の愛好家が所有していた刀で、春霞刀苑などに押形掲載。解説では「柾目肌よくつみ一面地沸」「刃文直刃足入り匂深く金線走る」。

サムハラという神字や添え銘などから寺社関係者に纏わる作品と推測する。

「春霞刀苑」梅月号通巻8号より引用

尾州犬山住道暁作之  弘化三年午二月吉日 大口朝明佩刀

鎬造り太刀 刃長75.7㎝ 反り2.4㎝ 名古屋市博物館蔵

​図録特別展鉄に掲載。*15

刀身に歌の切付けあり。「数ならぬ身にも仕ふる祈りぞあらむ 捨つる命に二つ無ければ 朝明」

地鉄は詰んで柾目は目立たず、刃文は直刃。

大口朝明(端山)の孫には宮内省御歌所に入所するなどした歌人、書家である大口鯛二(周魚)がいる。

53_edited.jpg

尾州犬山住大嶌円右衛門道暁作之

造り込み不明 脇指 刃長一尺

針綱神社所蔵、尾張刀工譜 犬山刀鍛冶/成瀬美雄の項に銘文のみ記載。

以木曽川水焠之 天保十一子月吉日

造り込み不明 刀 刃長二尺三寸五分

成瀬家所蔵、尾張刀工譜に銘文のみ記載。指し表の刀工銘は記載されていないが、直刃と紹介される。

出典:名古屋市博物館収蔵品データベース

犬山住道暁作之

脇指 刃長48㎝ 

偕行社の機関紙、偕行に趣味の日本刀として銘文のみ記載。*9

​「金茶の柄巻き、鞘には陣笠腹巻きの雑兵が幟を立てた蒔絵が施してあります。」とある。

尾州犬山住大嶌道暁 〇〇文久二年戌仲秋作之

大小柄、小刀 六寸九分三厘 21cm

本来の大小柄とは異風な形状で茎も反っている。道幸⑥で紹介する大小柄と比べても大きく、江戸後期の花刀などに使用されたのだろうか。

刀身平地に大きく銘を切り、茎に年紀と判読できない二文字を切る。裏側には「拵 山田宗□自作之」と銘があると紹介されているが、追い銘なのか画像がないので不明である。文久二年1862年はこれまでの道暁の作品としては晩年に近く、53~54歳頃の作になる。

​「暁」は「共」の形態をとっている。

大刀剣市で現物を拝見、裏の刃文は上半には焼きなく下半に互の目で帽子に飛び焼きあり。

http://www.surplusleopard.com/newpage25.html (有)清水商会より引用

犬山住道暁 以木曽川水焠之

平造り短刀  28.8cm

⑩で紹介した短刀と同様に反りが二分弱(0.4~0.5)ある姿、鍛えは柾目がはっきりと出ており肌に沿って地沸がつく。

​刃文は肌に同調し喰違いやほつれ、二重刃ごころを見せた大和風となっている。

道暁短刀23_edited.jpg

㉔尾乾犬山住道暁作 慶應四年二月日

刀 二尺四寸五分五厘  74.4cm

⑬と同様に慶應年紀を有する刀で古研ぎのため地刃不鮮明ながらも柾目が強く流れ、部分的に鍛接面が露出する。

刃文は直調に僅かに湾れ、部分的にばさけてまとまらない。合作3で紹介する慶應年紀道暁道幸の銘と比べても銘振りが異なることから、

合作3は道幸による銘と断定してもいいだろう。また作風が全く異なることから、合作③を主として鍛えたのは道幸だと思われる。

【道暁の銘 各年代の特徴について】

現在確認できている年紀作は以下の13作品。 これらを時代順に並べ銘の特徴を捉えてみる。

文政7年 1824 ⑮⑯ 脇指

文政7年、初期作にあたる銘の特徴

「州」は「タリ」と縦線が4本で形成され、左右の2本の角度が異なる。

「犬」第2画が左に突き出すのは後年まで一貫しており、第4画の点が1画の横棒と3画のはらいの間に入るのが特徴。

「道」の「首」における第1~2画目が後年と違い「V」の形になっている。

「暁」は「犬」同様に第6画が左に突き出し、11画のはらいの中間から12画が始まって孫六の「元」に似る。⑮脇指

​「暁」の第11画目のはらい終わりから12画が始まり、はねずにはらいで終わっている。兼㝎の「之」に似る。⑯刀

​「造」は文政7年⑮以外では見ない。

文政8年 1825

​④ 脇指

文政8年、状態が悪く判然としない

「犬」第4画の点が文政7年とは違い、1画横棒の上に上がっている。

「山」第1画が「犬」の2画目同様に左に突き出しごころに始まる(文政7年には確認できない)

​「道」の「首」における第1~2画目は「V]とならない。

「暁」は文政7年⑯と同様に「之」の形となる。​

天保9年 1838

​小柄

小柄という限られたスペースへの銘切りの為、他に見られる手癖が確認できない箇所がある。

「犬」第4画の点が1画横棒の上にある。

「山」第3画の終わりが右上方向に向かってはねる。

​「住」文政7~8年は第3画を下から上に向かって縦に切っていたが、右から左下へ切っている。

「道」しんにょうの形が異形 2点しんにょう

​「暁」第11~12画がやや形態は異なるものの、文政7年⑮のように11画目の中間から12画が始まっている。

天保10年 1839

​⑰ 刀

「州」文政7~8年と同様に「タリ」と縦線4本で形成される。

「山」最終角のはね「住」第3画の切り方「道」2点しんにょう、全て天保9年と同じ。

「暁」第11~12画がはっきりと「元」の形を成す。

天保13年 1842

​⑤⑥ 脇指

「犬」「山」には明確な変化なし。 (⑥には「山」最終角のはねがない)

「住」第3画が右から左下に切るのは変わらないが、「犬」第2画のように左に突き出しごころとなり、極端にいうと「>」の形となる。

「暁」部首である「日」の第4画の横棒が1画目の縦棒よりも左から始まっている。

​「暁」これまでは(日 卉 元)で形成されていたが、(日 土 共)で形成されている。

天保14年 1843

​⑫ 脇指

「州」文政7~8年 天保10年の縦線4本で形成された「タリ」から、縦線3本の「州」楷書になる。

​「山」⑥天保13年の脇指からまた戻り、最終角がはねる。

「道」の「首」第1~2画目が尖るだけでなく、「Z」のように第3~4画が異形となる。

「道」の「首」、「目」の横線3本が通常右から左の鏨で切られているが、本作のみ左から右へ逆鏨で切っている。

​「道」天保9~10年と同様に2点しんにょうとなる。

​「暁」は変わらず「共」となり、「日」の第4画のはみだしが強調される。

弘化3年 1846

​⑱ 刀

「州」天保14年⑫と同じく「タリ」から「州」に変わってはいるが、縦線の途中から左上へ鏨を打っており、微妙に異なる。

​「山」「住」ともに「州」同様、縦の鏨の途中から左上へ鏨が入っている。

「道」天保9~10、14年の3作と同様に2点しんにょうとなる。

​「暁」は変わらず「共」となるが、「日」の第4画のはみだしがない。

嘉永4年 1851

​⑭ 槍

「犬」「住」⑱と比較して変化なし

「州」弘化3年⑱と同様に棘のように、縦線の途中から上に鏨が切ってある。

​「山」最終角ははねない。

「道」通常のしんにょう。

​「暁」​「日」の第4画はみださない。「元」になる。

文久2年 1862

​㉒ 大小柄

画像が荒く判別できない文字がある。

​「山」最終角ははねない。

「道」通常のしんにょう。

​「暁」「共」になる。

慶應3年 1867

​⑬ 短刀

​「州」縦戦3本だが「タリ」に似た角度がつく。

「犬」文政7年の初期作と同様に、第4画の点が第1と第3画の間に入る。

​「山」最終角だけでなく、第1画もはねる。

「住」第3画の点が上から下へ切られる。

「道」「首」の第1~2画が「V」となる。これも文政7年と同様。

​「暁」「元」になる。これまでと違い全体的に小ぶり。

慶應4年 1868

​㉔ 刀

​尾乾犬山住道暁作 慶應四年二月日

「乾」道幸と違い「車」のように縦の線が「日」を貫く。

「犬」文政7年の初期作と同様に、第4画の点が第1と第3画の間に入る。

​「山」最終角のみはねる。

「道」「首」の第1~2画が「V」となる。これも文政7年と同様。

​「暁」⑬に似る。

【道暁の銘 変遷について】

​前述した各年代の銘の特徴をグループ化した。

​なかには画像の荒さや、槍など狭いスペースに銘を切った場合などの条件の差もあり「?」とした物もある。

必ずしも時代ごとに変化していくわけではなく、遡って古い時代の銘を切ったものもある。

​これを元にして年紀のない作品の製作時期を探ってみる。

文政7年×2

天保10年×1

天保14年×1

弘化3年×1

嘉永4年×1

​文久2年×1

慶應3年×1

文政7年×2

文政8年×1

天保9年×1

天保10×1

天保13年×2

天保14年×1

弘化3年×1

嘉永4年×1

​文久2年×1?

慶應3年×1

慶應4年×1

文政7年×2

​文政8年×1

天保9年×1

天保10年×1

天保13年×1⑤

天保14年×1

​慶應4年×1

天保13年×1⑥

弘化3年×1

嘉永4年×1

​文久2年×1

慶應3年×1

文政7年×2

文政8年×1

天保9年×1

天保10年×1

​慶應4年×1

天保13年×2

天保14年×1

弘化3年×1

​嘉永4年×1?

文久2年×1

慶應3年×1

文政7年×2

天保9年×1

天保10年×1

​弘化3年×1?

文政8年×1?

天保13年×2

​嘉永4年×1

​文久2年×1

天保14年×1

慶應3年×1

​慶應4年×1

文政7年×1⑮

​天保9年×1

文政7年×1⑯

​文政8年×1

天保10年×1

​嘉永4年×1

天保13年×2

​天保14年×1

文久2年×1

弘化3年×1

慶應3年×1

​慶應4年×1

【道幸について】

​道幸は道暁の長男にして名は大島門十郎。大正七年十一月七日(1918)に六十七歳で亡くなっており嘉永四~五年(1851~1852)の生まれと推定する。(春霞刀苑梅月号では「大正七年十一月十八日六十七才「過去帳記載」」と亡くなった日にちが十八日になっているが、専念寺の大島家の墓誌には七日となっている。)

明治五年(1872)帯刀禁止令により江南市村久野に移り、その後丹羽郡扶桑町柏森字中屋敷に居住し農鍛冶および豆腐製造なども行ったとされている。

帯刀禁止令、廃刀令は明治九年(1876)であるが、実際の発令前に移住したのだろうか。*4

柏森字前野前にて死去。菩提寺は道暁と同様に専念寺だが、江南市村久野の松川乙吉方(長女嫁入り先)の墓地に道暁夫婦と道幸夫婦の戒名が彫られた石碑があるという。(場所不明)戒名は「啓誉哲門居士」 

道幸ご子孫の協力により、生年月日が判明したので記録する。

大島門十郎 嘉永五年正月十五日生 

(戸籍では父大島喜刀とある)

これにより嘉永五年、即ち1852年1/15生まれということから年紀入りの刀が何歳で作られたかが分かるようになった。

元治元年1864年の作は僅か12歳である。 明治五年の廃業は20歳。僅か8年間の刀工人生であった。

【道幸の作品について】

作風は道暁と似て柾目肌がよく詰んで地沸つき、匂い出来の直刃に所々刃沸がつくものが多い。​経眼した作品には新々刀らしい無地風の肌や、板目よく詰み部分的に流れて地沸厚くつき、地景交る作品も確認される。

文献などから確認できた道幸の作品(銘文のみで実物は未確認のものも含む)は20振り

ほかにも以下に記した道暁との合作が数点存在する。

「尾州犬山住大嶌道暁同藤原道幸 慶応二年辰八月吉日 以木曽川水焠之」               尾張刀工譜 銘文のみ

「尾州犬山住大嶌道暁藤原道幸  於東都為幕臣鷹岡忠治君鍛之 慶応二年二月日 男忠一熊本役佩之」  春霞刀苑  銘分のみ

​「尾乾住藤原道暁同道幸作之  慶應二年丙寅八月 以木曽川水焠之」                 オークション出品作

尾州犬山住大嶋道暁同藤原道幸    慶應三卯十二月日 以木曽水焠之」                 刀剣美術 銘文のみ*11

 

脇指短刀が多く、切先が延びたものや鵜首、冠落などが多く文献に記載されている。

​冠落では、薙刀樋に添え樋を掻いたものと、薙刀樋が切先あたりまで延びたものの二通りがある。

茎は道暁と同じく刃上がり茎尻、添え銘も「以木曽川水焠之」と入るものがある。これについて、木曽川水と蘇水とで親子の代別が分かるという記述を複数見かけたが、蘇水銘は資料や押形でも確認できない。*2

奉納刀は現在確認できている範囲で三光稲荷神社(針綱神社西隣)の刀と、熱田神宮別宮の八剣宮に奉納されていたと推定する剣、行方知れずとなった日置神社の短刀がある。*12

また年紀入りの作が少なく、初期の元治年紀、合作が中心の慶應年紀、廃刀令前の明治年紀。

明治五年の廃業時でおよそ20歳ということもあり活動期間が短い。

​昭和五十八年十一月十七日時点で愛知県の銃砲刀剣登録原票では、偽名などの信憑性を除いて道暁-16振り、道幸-21振りが確認されている。*2

尾張と三河の鐔工 より引用

犬山住道幸と銘のある喰出鐔。*13

道暁銘のある鐔は比較的目にすることが多いが、道幸の鐔は初めて見た。

​解説では杢目肌の鐔を作っているとあるので、作例は複数あるように受け取れる。

実際に手に取り鑑賞できたものを青で示した。

道幸

鎬造り刀 刃長二尺六寸二分 反り四分 元幅一寸一分

犬山市の愛好家が旧蔵。春霞刀苑に押形掲載、刀剣趣味に紹介されているが、共に傑作と評している。

「柾目鍛にて柾目帽子までよく通る。刃文直刃にて、匂いよくしまり、刃表に帽子より刃区まで金筋が入る出来であつた。」

「庵棟大帽子 豪壮なる刀 地鉄板目肌よく詰み地沸豊富刃文直刃刃縁金筋入る。」

板目と柾目の表現の違いがある。「鞘書きに尾州公の命に依り之を鍛る」と解説されている。

これは時期的に考えると犬山藩最期の藩主である9代藩主 成瀬正肥(まさみつ)の仲立ちによって、尾張徳川家の徳川慶勝のために制作された刀と推定する。

「春霞刀苑」梅月号通巻8号より引用

道幸作  八剱宮

鎬造り剣 刃長一尺 元幅3.28㎝ 先幅3.81㎝ 重ね0.6㎝​ 個人蔵

柾目肌、直刃

海外愛好家より情報提供、銘文から熱田神宮別宮 八剣宮へ奉納された剣と推定される。

鞘は新調されており当時のものではない。

​海外刀剣店で販売されていたが、現在は海外の愛好家が所有されている。

「YAKIBA」https://yakiba.com より引用

犬山住道幸

冠落造り短刀 刃長19.6㎝ 無反り 公益財団法人犬山城白帝文庫蔵

調査のため撮影を行ったがここでは掲載しない。

冠落造り、薙刀樋が物打ち辺りまで延びる。地鉄は柾目肌非常によく詰んで地沸、地景交る。

刃文は匂い出来の湾れに小互の目交えて部分的に菊花となり、砂流しと金筋が盛んに入ることで菊水となる。

帽子は薙刀樋付近まで深く返る。 

犬山住道幸  明治三年二月日

鵜首造り短刀 刃長27.5㎝  反0.3㎝  全長36.3cm 名古屋市博物館蔵

調査のため撮影を行ったがここでは掲載しない。

平成十八年に名古屋市在住の方から寄贈され、塚原進三氏により研磨が行われた。

僅かにある先反りとフクラの張った切先から切れ味という利便性を追求したと推定する。

薙刀樋に添え樋が刀身中ほどまで入り、地鉄は詰まって無地となり柾目は目立たない。刃文は小互の目を連ねて数珠刃となる。

犬山住道幸  以木曽川水焠之

鵜首造り短刀 個人蔵

刀剣会関係者の紹介によって撮影を行った。

薙刀樋に添え樋を鵜首の削いだ棟の線に沿って物打ち棟側へと入る。

肌は非常によく詰んだ柾目となり、匂い口締まった直刃を焼いている。

​⑮同様に僅かに水影がある。銘振りの特徴は④の明治三年紀に似る。

111_edited.jpg

犬山住道幸作之

大小柄(短刀として登録証)刃長18.2㎝ 反0.5㎝ 個人蔵

所有者の方より連絡をいただき拝見する。

共柄で柄部分には孔が一つ、片面のみ漆をかけて盛ってある。

地鉄は古研ぎで判然としないが板目が詰み流れごごろあり、刃文は互の目で棟側も下まで焼き下げる。

こうした刀装具に類する作品を見たのは初めてであり、とても貴重な資料である。

​「之」の字が元治~慶應の作品に見られる特徴を示すため、比較的に初期の作と推定する。

尾乾住道幸

平造り短刀

尾張刀工譜に茎押形掲載、尾乾住と道幸を二行に別けて切る。

⑮と同様の銘の切り方、茎幅の狭さが理由であったなら⑮と同様に小振りな短刀と推定する。

尾張刀工譜より引用

尾乾住道幸  元治元申子年十二月日 以木曽川水焠之

鎬造り脇指 刃長39.3㎝ 反り0.4㎝ 個人蔵

尾張刀工譜に茎押形、犬山の文化財Ⅲに押形が掲載。

道暁天保年紀の⑥⑫に似た体配で、反り浅く切先が延びる。鎬が高く刃文は互の目、帽子乱れて先掃きかけ、返りが寄り棟焼きが入る。

12歳の作品であり、現存する道幸の作品の中で最も古い年紀。

​鍛え割れが処々に荒れてみえるが、総体に沸厚くついてまとまっている。

尾乾住藤原道幸  以木曽川水焠之

造り込み不明脇指 刃長一尺一寸 成瀬家蔵

尾張刀工譜に銘文のみ記載。

犬山刀剣研究会が刀剣趣味に寄稿した尾張国犬山鍛冶考では、刃長が同じ「尾張住藤原道幸 以木曽川水焠之」が紹介されているが、

道幸の作品で「張」を使った銘は確認できず、誤記と推定する。

尾州住道幸 

平造り短刀 刃長17cm 無反り 元幅18mm 重ね9mm

尾張刀工譜に茎押形が掲載、(株)三明貿易刀剣徳川の過去販売品。

​長さの割に重ねが厚い鎧通しの姿、柾目肌がよく詰んで道暁の⑨と同様に柾目肌に沿って地沸厚くつく。

刃文は直刃。

http://sanmei.com/contents/media/A12997_T3712_PUP.htm ㈱三明貿易刀剣徳川 より引用

尾州犬山住道幸

鎬造り刀 刃長二尺五寸八分 反り三分 元幅一寸四厘 先幅七分三厘 重ね二分六厘

刀剣柴田 麗平成7年6月号に押形が掲載。反り浅く長寸で茎も長い、所謂勤王刀と呼称される姿。

​棒樋があり、地鉄は小板目が詰み、刃文は小互の目に砂流し、刃縁沸づくとある。*16

​刀剣柴田「麗」平成7年6月号より引用

尾州犬山住道幸

鎬造り刀 刃長78.6㎝ 反り1.8​ 個人蔵 

二尺五寸九分と⑪より僅かに長いが、姿や目釘孔の数と位置、銘振りなどが酷似した作品。

​短い作品と比べて⑪、⑫の銘は「幸」の最終角が伸びない。

道幸の地鉄は柾目鍛えを本筋としながらも、③短刀と本作は板目に杢目を交えて地景が頻りに入った相州伝を狙ったような出来となっている。

​小乱れ、小互の目に砂流し金筋を交える。

押形作成 澤田康則氏

尾州犬山住道幸

鎬造り直槍 刃長12.6㎝

​犬山の文化財Ⅲに押形が掲載。 道暁⑭に似た姿で、刃文は直刃にほつれ。

犬山の文化財Ⅲ尾張の刀剣と刀装具-犬山の刀鍛冶を中心に-より引用

尾州犬山住道幸  以木曽川水焠之

冠落造り脇指 刃長34.8㎝ 反り0.2㎝  個人蔵

薙刀樋が物打ち辺りまで入り、地鉄は柾目肌が詰んで部分的に地沸つく。

​刃文は直刃で所々刃沸が際立ち、バサける。「以木曽川水焠之」の鏨使いが拙く見えるが、⑤短刀も同様だった。

​明治三年の作と比べても明らかに茎錆が薄い。それだけ新しいのか、保存状態の問題か、それとも錆を取ったのだろうか。

尾州犬山住道幸

切先両刃造り短刀 刃長21.4㎝ 無反り 個人蔵

薙刀樋に添え樋が刀身中程まで入り、地鉄は柾目肌が詰む。

​刃文は直刃にほつれや二重刃を交える。

​銘を二行に分けている点と、茎錆の状態は⑰慶應年紀に似る。 慶應頃の作か。

奉納 尾州犬山住道幸

鎬造り刀 刃長69.7㎝ 反り1.3㎝ 三光稲荷神社蔵

奉納品ということで残念ながら調査依頼は叶わない。犬山の文化財Ⅲに押形が掲載。

​確認できている道幸の刀はこれを入れて4振り。(①、⑪、⑫、⑯)

針綱神社が所蔵する道暁の奉納刀や、奉納品と推定する道幸の八剣宮銘の剣などと違って、この刀には「奉納」と銘がある。

⑪、⑫と同様に「幸」の最終角は伸びないが、目釘孔は一つ。刃文は直刃。

犬山の文化財Ⅲ尾張の刀剣と刀装具-犬山の刀鍛冶を中心に-より引用

尾州犬山住大嶌道幸作之 慶応三年卯二月吉日

平造り脇指  岐阜市蔵

岐阜城一階に展示されていた。

展示品は市が購入したものや寄贈を受けたもので、岐阜城との所縁はない。

リニューアル工事後からパネル展示を行っており、武具類は展示されていない。

​今後も武具の展示予定はないと岐阜市観光コンベンション課より確認する。

解説では包丁正宗とあるが、身幅も尋常で姿や刃文など似ているところはない。

道幸には⑧の元治年紀をはじめ、慶応二年、同四年、明治二年があると尾張刀工譜で紹介しているが、④の明治三年紀と当該脇指の慶応三年が新しく年紀作として記録される。 道暁に比べて道幸の年紀作は少ない。

また、⑱に紹介する道暁との合作と同様に「大嶌」姓が銘に入るが、現時点で実物の銘振り(大嶌)を確認できる唯一の作。

​銘に「作之」と入る例は⑥大小柄と本作の二例のみ。 

⑱〇尾張國道幸 

短刀  日置神社蔵(名古屋市中区)

名古屋郷土叢書第二巻、名古屋市史第五巻社寺編などに寶物として記載されている。*12

奉納由来や形状などが分かる文章や写真がないので、現状では短刀ということのみ。

銘に「尾張國」とあるのは初見、江戸後期の尾張鍛冶では勝重や信高などにも同様の銘が確認できる。

日置神社宮司土屋氏より、先任の鈴川宮司から「火災・盗難の節に、掛け軸・骨董類は消失」と引継ぎの折に聞き及んでいるとご回答いただいた。

火災による焼失か盗難によるものか断定はできないが、残念ながら現物の所在は不明である。

 

道幸 

贈従五位林金兵衛翁(贈従五位林金兵衛翁顕彰会, 大正14)によると、徳川慶勝の側用人田宮如雲のもと編成された草薙隊の林金兵衛重勝に対して、梅村騒動の際の行いに対して功賞として道幸の刀を賜るも固辞するとある。このことから、①の尾州公とある刀は徳川慶勝のために作刀されたものだと推定したが実際には短刀が贈られたようだ。『如雲大労、藩主亦大喜賜以道幸刀、且賞功将藩士籍、固辞不受曰』

​​

固辞したとある短刀がなぜ写真として残っているかは不明。​*17

林金兵衛重勝の墓がある春日井市泰岳寺に確認したところ、直系一族は途絶えていることを副住職泰丘良玄氏よりご回答いただいた。

贈従五位林金兵衛翁より引用

尾乾住道幸  

平造り脇指 刃長30.8㎝ 反り0㎝ 個人蔵

尾張刀工譜に茎押形が掲載されている⑦に似るが微妙に銘が違うので別物だと推察する。

​重ね厚く無反りでよく詰んだ柾目に匂口の締まった直刃を焼いている。⑲同様に拙い銘振りで初期作に該当し、腰元に割れが見られる。

​​腰元の柾目に沿って地沸厚くつき、湯走り状となって白気映りのような働きを現す。

【道幸の銘について】

道幸の銘の変遷について調査する。

元治元年1864、慶應二年1866、慶應三年1867、明治三年1870、年紀が確認できる作品は4振りのみ。

作刀期間が短いこともあり、変遷というほどの変化は見られず初期に比べて鏨が走っている程度の変化となっている。

但し、⑪⑫の刀二振りに限って銘振りが異なっている。

​他にも①⑯㉒と刀が三振りあるが、これらは他の脇指や短刀と同様の銘振りをしている。

現在銘の特徴をまとめている最中なので画像を並べただけとなっています。

​「幸」が斜めに伸びるところ、「道」の首の逆鏨など調べています。

1864

1866

1867

【親子合作】

1.尾州犬山住大嶌道暁同藤原道幸 慶応二年辰八月吉日 以木曽川水焠之

造り込み不明刀 刃長二尺

尾張刀工譜に銘文のみ記載。親子合作のため、表には入力していない。

2.尾州犬山住大嶌道暁藤原道幸  於東都為幕臣鷹岡忠治君鍛之 慶応二年二月日 男忠一熊本役佩之

春霞刀苑に銘文のみ記載。幕臣鷹岡忠治が忠一という親族のために鍛えたと推定できる銘。

熊本役とは西南戦争と関係があるのだろうか。

東都とあるように江戸の注文者にむけての作刀である。

道暁及び道幸の作品に伊賀乗重の截断銘は確認できておらず、道辰の作品に数点と、江戸の固山宗次(犬山打ちもある)などに集中している。    試し切りも千住すなわち江戸で行われた銘が多く、伊賀乗重の活動は犬山よりも江戸が中心だったのだろう。

そうした点からこの刀は伊賀乗重を介して注文された刀であり、

​木曽川の水で焼き入れを行った旨の添え銘もなく、「於東都」とあるように道暁と道幸が江戸に出て鍛えたのだろうか。

同門道賀にも「君萬歳於東都道賀造之 天保四年巳十二吉日」という刀がある。徳川黎明会所蔵

​江戸詰めにあたって東都成瀬邸で刀を作って献上している。

3.尾乾住藤原道暁同道幸作之  慶應二年丙寅八月 以木曽川水焠之

鎬造り刀 刃長74.5㎝ 反り0.9㎝ 元幅32.4mm、 元重8.2mm 先幅23.0mm、 先重4.7mm

オークションサイトに出品された刀。

上述2振りと同じく慶應二年の作品であり、合作がこの年に集中している理由があるのだろうか。

実際にこの刀が発見されたことで、茎画像から銘振りが確認できる。当該刀に関して言えば銘振りは道幸の手によるものだと推定する。

その理由として以下に述べる。

​1犬山を表す「乾」が銘に入る道暁の作品は確認できていない

2「曽」の銘が道暁の場合は第一画~二画は「曽」であり、道幸は「曾」を主に使っている

 曽の第3~7画目が「曰」となるのが道暁、「田」となるのが道幸の特徴である。

慶應二年は道暁56~57歳、道幸は14歳であり、息子へ手本を示すように共同製作したのではないか。

刃文は互の目、互の目の中に放射線状に足が入り菊水に見える部分がある。

​地景に金筋が盛んに入り、砂流しがかかる。この出来は道幸③の短刀に繋がる出来を示す。

ヤフーオークションより

4.尾州犬山住大嶋道暁同藤原道幸    慶應三卯十二月日 以木曽水焠之

刀 刃長二尺三寸五分

刀剣美術30号の貴重刀剣認定記事に銘だけ記載された刀。

地元名古屋で登録され、昭和28年当時の持ち主は野畑氏となっている。

誤記か不明だが、通常「木曽川水焠之」となる銘が「木曾水焠之」となっている。

​もしこれが間違いなければ、木曽川水と蘇水とで親子の別が分かるとされている記述について参考となる。

木曽川の漢字について、「曽」および「曾」どちらの銘振りも存在するが、この論考では全て「曽」​として統一した。

​最終的には茎の銘が文章ではなく押形などで確認できるものは、分別していく。

引用参考文献及び参照:整理中

 1 犬山市犬山西古券262専念寺、大島家墓誌

 2 田與(昭和59年)尾張刀工譜 「尾北の風土記 柴田菫村」、名古屋市教育委員会

 3 犬山市教育委員会(昭和62年)犬山市史資料編四 「犬山里語記巻之六 肥田久吾」、犬山市

​    愛知県丹羽郡犬山尋常高等小学校(昭和10年)犬山里語記 全(謄写版)

 4 犬塚徳太郎(昭和39年)春霞刀苑梅月号 「尾張国犬山刀匠道暁及道幸について 斉木保」、東京春霞刀剣会事務所

 5 犬山市文化史料館(平成9年)特別展犬山の文化財Ⅲ尾張の刀剣と刀装具-犬山の刀鍛冶を中心に-、犬山市文化史料館

 6 財団法人日本美術刀剣保存協会 名古屋支部(昭和47年)二子山則亮考、財団法人日本美術刀剣保存協会 名古屋支部

 7 若山泡沫(昭和59年)刀剣と歴史537「尾州金工を総覧する」、日本刀剣保存会 

 8 盛岡市教育委員会(昭和57年)新編盛岡市の文化財

 9 財団法人偕行社(平成2年)偕行477「趣味の日本刀・丸山徹」

 10 三枝啓助(昭和34年)刀剣美術第59号 「伊賀兎毛の手控えより」、公益財団法人日本美術刀剣保存協会

 11  刀剣美術(昭和29年)30号、貴重刀剣認定(昭和28.6.21)於名古屋支部

 12 名古屋市(大正4-5年)名古屋市史 社寺編

​ 13 岡本保和(昭和58年)尾張と三河の鐔工

 14 犬山市(昭和62年)犬山市資料第三集、「犬山城天守閣内天覧品陳列目録」、犬山市教育委員会 犬山市史編纂委員会

              犬山市資料第三集、「犬山刀匠名列記

 15 名古屋市博物館(平成16年)特別展「鉄-くろがね-攻めと護り・武士の美」、名古屋市博物館

 16 刀剣柴田 麗平成7年6月号 平成21年2月号

 17 贈従五位林金兵衛翁顕彰会(大正14)贈従五位林金兵衛翁

​ 18 公益財団法人犬山城白帝文庫 (令和3年)研究紀要第15号 「伊賀兎毛三代について」白水正

​ 19 公益財団法人犬山城白帝文庫 (令和6年)研究紀要第18号 「成瀬家の御腰物帳について」白水正

 

   財団法人犬山城白帝文庫歴史文化館(平成24年)特別展犬山城と城下町、財団法人犬山城白帝文庫 

 

   宮形東雲(昭和35年)刀剣趣味29号「尾張国犬山鍛冶考」犬山刀剣研究会

   宮形東雲(昭和38年)刀剣趣味59号「犬山刀剣会研究発表の犬山道暁のことについて」中津川美術刀剣愛護会 二村勝嘉

​   山田温香(昭和9、22年)尾張釼工名寄

​   左行秀と固山宗次その一類 片岡銀作

      加藤静允(平成9年)山城新刀押型、湯川書房、p4~5 P48~49

​   井本悠紀(平成26年)刀剣美術第684号 「泰龍斎宗寛の銘と伊賀乗重の截断銘について」、公益財団法人日本美術刀剣保存協会

 

Thank you for your information and cooperation in the survey.

Mr.PatorikkuTakakage

Mr.Ed Marshall 

Mr.Peter Farar

​ 

         Copyright(c) 刀剣雑考 不憤不啓  All rights reserved.

©Copyright protect
bottom of page