犬山鍛冶 道暁と道幸について 文責 加藤
尾張刀工といえば地元で尾府三作と誇称される新刀期の相模守政常に飛騨守氏房、伯耆守信高が有名だが、
焦点をあてられることが少ない尾張新々刀期の刀工の中で、犬山鍛冶である道暁と道幸について調査する。
両名の作風や銘振りについて纏めると共に、郷土刀工についての興味や関心のきっかけになればと考え記録することとした。
最終的に論考として纏めるが、未だその体を成していない。情報提供などご協力お願い申し上げます。
現在の調査項目、目標
・銘の特徴
・両名の写真、正確な生年月日 (門十郎道幸の生年月日判明2023.8.26)
・村久野にあるという松川乙吉墓にある墓碑 (墓碑発見2023.9.2)
・成瀬家の評価
・道暁の名前について 喜右衛門、喜刀、圓右衛門
・道幸の作成した農具の現存について
追記追記で記事が長くなって読みづらくなったので、主要記事に飛べるようにしました
【道暁について】
道暁・大島圓右衛門は明治三十年(1897)十二月二十八日に八十八歳で亡くなっていることから、生まれは文化五年~六年(1808~1809)と推定する。犬山市大字犬山南古券(現在の外町)先聖寺大門北角に居住し作刀する。
犬山市西図師町専念寺に葬られており、戒名は「幸誉徳道居士」。*1
春霞刀苑梅月号 「尾張国犬山刀匠道暁及道幸について 斉木保」1964
上記書籍で道暁のことを大島喜右衛門としているが大島圓右衛門の誤りである。
また、『犬山里語記に道辰という銘鍛冶犬山に来たりて日比野道春に於て鍛造針綱神社に奉納するとある』と紹介している。
これについても道春という刀工は確認できず、下記の参考資料からしても道俊の誤りである。
犬山里語記全 謄写版 愛知県丹羽郡犬山尋常高等小学校
『一 御脇差 奥州會津住人中條藤助 道辰と云銘鍛冶犬山に来りて日比野道俊におゐて鍛之奉納』
犬山里語記 名古屋市史資料
『一 脇差 奥州会津住人中条藤助道辰と云者犬山に来りて日比野道俊におゐてきたひ奉納』
春霞刀苑(1964)をもとに会津若松市史第11巻(1967)が、会津若松市史をもとに刀剣と歴史523号(1981)が喜右衛門、道春となっている。
犬山市資料第三集(1987)犬山刀匠名列記では『道暁 大島圓右衛門 文政、天保』としている。*14
【道暁の名前について】
道暁の名前について、喜右衛門は間違いであり圓右衛門が正しいという説を挙げたが、喜右衛門とする資料が新たに見つかった。
また、後述する門十郎の戸籍にて父「喜刀」とあり喜右衛門、喜刀、圓右衛門という3種の名前については今後の調査が必要。
喜右衛門とする資料は春霞刀苑1964年が古く、江南市村久野にある道暁・道幸両夫婦の墓碑にも側面に「大島㐂右エ門夫婦」とある。
円右衛門(圓右衛門)を使った資料は以下の通り。
犬山市資料第三集1987 犬山刀匠名列記 道暁 大島圓右衛門
柴田菫村 尾北の風土記(年代不明) 大島円右エ門
成瀬美雄 犬山刀鍛冶(年代不明) 大島円右エ門
また成瀬氏の犬山刀鍛冶の項では「尾張犬山住大嶌円右衛門道暁作之」と銘のある刀が針綱神社に奉納されていると紹介している。
下記②⑯で紹介した短刀と刀には「尾州犬山住大嶌円右衛門道暁作同人奉納」と鞘書きがあり、これのことを指しているのかもしれない。
刀には文政七年、短刀は文政八年の年紀があることから、鞘書きがどちらの作品完成のタイミングで書かれたか不明だが、少なくとも文政七~八年時点では「圓右衛門」を名乗っていたことがわかる。
下の犬山城下町絵図1839で先聖寺の大門北角の圓右衛門を道暁としているが、場所については尾北の風土記にて記載があるものの同名圓右衛門ではないという確証はない。
針綱神社が所蔵するとある円右衛門道暁と銘のある刀を実見することができれば、道暁が圓右衛門(円右衛門)を名乗ったという確実な証拠となる。
そうなると、道暁は圓右衛門から喜右衛門へとどこかのタイミングで改名したことになる。
圓右衛門ーーー門十郎ーーー圓太郎と続く家系の中で圓(円)という字が使われているならば、門十郎も幼少時は圓十郎だったのだろうか。
圓右衛門が喜右衛門となり、明治の戸籍では喜刀となっている名前の変遷にも、新たな謎が感じられる。


犬山城下町絵図 天保十年(城とまちミュージアム展示)
赤丸で囲った部分が圓右衛門
一部山専念寺

専念寺 大島家墓 2024.4

圓右衛門道暁の墓碑
専念寺の大島家墓は道暁本家から分かれた道幸門十郎系の親族が管理しているが、専念寺住職によると大島姓は途絶えている。
斉木保氏の「尾張国犬山刀匠道暁及道幸について」では扶桑町に移住した門十郎系として末裔の大島武夫氏を紹介しているが、丹羽郡扶桑町柏森辻田に住した大島武夫氏ならびに息子であろう武志氏が既に亡くなっていることが専念寺の墓誌で確認できる。住職によると現在管理している方は遠方にお住まいとのこと。個人情報につき連絡先は不明。
2023年3月 いろいろな偶然が重なり、大島家ご子孫の方と連絡が取れるようになった。
8月には御施餓鬼に際して親族が犬山に集まり、郷土犬山の地で道暁、道幸両名の作品を鑑賞する場を設けることが叶いました。
門十郎道幸の戸籍取得にご尽力いただき、お互いに知らなかった情報を交換できました。
【松川乙吉墓】
春霞刀苑にて『江南市大字村久野、道幸の長女嫁入先松川乙吉方の墓地に父親道暁夫婦と共に二夫婦戒名が彫まれたる石碑が有る』と記載がある墓碑について、正確な墓地の場所が不明だったが江南市村久野町中郷にある小村霊園にて発見した。
正面
啓誉哲門居士(道幸・門十郎)
建室智常大姉(道幸妻・もと)
幸誉徳道居士(道暁・圓右衛門)
梅誉貞薫大姉(道暁妻)
右側面
大正七年九月四日(もと) 大正七年十一月七日(道幸) 大島門十郎夫婦
左側面
明治三十年十二月五日(道暁) 明治廿三年十二月十五日(道暁妻) 大島㐂右エ門夫婦
裏面には「小沢建立」とある。
この墓碑で疑問なのは道暁(圓右衛門・喜右衛門)の没年であり、専念寺墓誌では明治三十年十二月二十八日となっている。
十二月五日という日付はどこから来たのだろうか。

「春霞刀苑」梅月号通巻8号より引用


左側面には 明治三十年十二月五日 明治廿三年十二月十五日 大島㐂右エ門夫婦 とある


小村霊園 松川家墓 2024.4
【もう一つの大島家】
尾張刀工譜には『門十郎系の弟五世の孫は先聖寺南角の現大島栄一氏である。』とある。*2
このことについて先聖寺の坊守さんに伺ったところ、正確な年代は分からないが、少なくとも昭和25年頃には大島さんという方が判子屋を営んでいたとお聞きすることができた。現在その土地は町内会によって山車蔵として利用されている。
法務局の旧土地台帳、閉鎖台帳を確認すると明治三十一年の記録に大島力之助とあり、その後は大島房子氏や熊崎氏などを経て平成九年に外町町内会の所有となったことが分かった。


先聖寺を挟んで右側の民家が道暁鍛冶場跡
左側が道幸系の大島栄一氏の住居跡
神護山先聖寺

専念寺 大島家之墓(大島榮一氏の家系)2024.4
専念寺の道暁および道幸の墓誌がある大島家先祖代々之墓の裏に、大島栄一氏の大島家之墓もある。
そこには「大正九年三月廿九日 俗名 二代大島貞宗」「大正十年三月 大島榮一建之」と両側面に彫られた墓がある。
榮一氏は「賢誉宗栄居士 昭和五十四年九月十日」とあるのが該当すると推定する。
現在管理されているのは榊原氏、瀬口氏とあるがお二人には辿り着いていない。
奥に見えている日比野家についても、日比野道俊ら犬山鍛冶の関係だろうか想像が膨らむ。
【道暁の師事】
道暁の師事については包重杢右エ門より鍛刀を学び定重とも称したとされるが、定重銘の作品は現時点で確認できない。*3
(鍛冶屋町包重松右衛門ハ生駒氏也、本国大和之国ゟ大坂ニ暫く住して、御陣之後濃州関之文珠四郎をたより関に来り、四郎のさし図ニよって犬山兼常へ来らしむ、于時元和四年戌年也~)




【道辰との関係について】
文化十四年(1817)江戸から成瀬候が犬山へ帰る際に、御家中伊賀乗重に連れられて犬山へ来遊した四代若狭守道辰(中条藤助)が実質的な師とされている。来遊または一時的な居留など期間について確かなことはわかっていない。
犬山里語記では代々農鍛冶だった日比野庄右衛門(六代目庄吉)が息子庄三郎と共に道辰の門人となり道の字を譲られ道俊、息子は伊賀氏より賀の字をとって道賀と名乗る経緯が述べられているが、そこに道暁についての記述はない。
道暁が文化五~六年の生まれだと、道辰が犬山に来た文化十四年は9歳前後、後述の文政七年の脇指は15歳前後となる。
果たして包重に入門した時間的空白があるのか疑わしい。
犬山城主成瀬隼人正の抱え鍛冶となった道暁は、犬山市大字南古券にて刀剣及び小道具の製作に務めた。*4
道辰之門鍛之と銘のある脇指が文政七年(1824)、この時の成瀬隼人正は七代当主成瀬正壽にあたる。
成瀬家蔵として、「於尾陽犬山城下奥州会津住藤原道辰作之・正壽公蒙命於東都千住臣伊賀兎毛乗重二ツ朋截断 文政五年八月吉日」という刀がある。
道暁及び道幸両名の活動期間における成瀬家当主は七代当主正壽(文化六年1809~)、八代当主正住(天保九年1838~)、九代当主正肥(安政四年1857~)である。
括弧内の年は生年ではなく家督を継いだ年。
道辰が犬山に来て初めて作刀したと推測される資料が、特別展 「犬山城主成瀬家の家臣たち」に展示された。
奥州會津住人中条藤助道辰作之 文政元年九月廿五日於千住乗重自乳割雁金裁断之
文化十四丁丑年四月吉日於尾州犬山包重 之旅舎以蘇流之清水鍛焉応伊賀乗重君之需
道辰の作品をいくつか紹介する。
「奥州會津住道辰 文政六未年二月吉日 於尾州犬山作之」 岐阜県博物館蔵
「陸奥會津住道辰 文政五午年二月吉日 於犬山作」
「奥州會津住道辰 文政五年八月日 於尾州名古屋作之」 徳川美術館蔵
「於尾陽犬山城下奥州會津住藤原道辰作之 文政五年八月吉日 正寿公家命於東都千住臣伊賀兎毛乗二ツ胴裁断 」
上記と同じ刀か不明だが、長二尺一寸三分 於尾陽犬山城下奥州住藤原道辰(文化) 犬山市教育委員会『犬山市資料第三集』
「奥州會津住道辰 於尾州犬山作之 文政六未年二月吉日」 刀剣と歴史529
他にも、「尾陽犬山住道辰作」などの銘がある。


岐阜県博物館所蔵(千磨百錬 よみがえる赤羽刀/展示)


刀剣柴田「麗」平成21年2月号より引用
刀剣と歴史529号より引用
【会津の刀工道辰について】
編集中202408
【道辰門人について】
会津道辰----------道俊(日比野庄右衛門)、道賀(日比野庄三郎)-------道正(松二郎)
----------道暁(大島園右衛門)-----道幸(大島門十郎)
----------道秋
-----記号は師事を表す
道辰に直接師事したのは、道俊と道賀親子、道暁、道秋となる。
道正は道賀に、道幸は道暁に鍛刀の術を学んだ。但し道秋については作品資料共に未見で、道賀と同時期に師事したとされているのみ。
道暁の誤字かとも推測したが、時代を元治頃としているため時期がずれること、鍛冶屋町で包丁や草鎌、剃刀を作っていたとのことから別人か。
『天保二年に日比野長助という犬山刀鍛冶が修行のため江戸に出て来た時、乗重の長屋の一角に居住させたいという願いを出している。長助は日比野庄右衛門の子と思われるが、鍛冶名は分かっていない。』*18
この日比野長助に関しては道義、道秋の可能性を含んでおり、今後の研究にて解明されることを願う。
【道義について】
尾州犬山住道義、尾州日比野道義と銘を切る刀工として道義が尾張刀工譜に紹介されている。(押形などは無し)
犬山鍛冶で道の字を冠することから、道辰系一門と推察できるが、道辰に直接学んだか他の道俊などに学んだかは不明。
この道義については銘に日比野姓を入れることから、道俊や道賀との関係性があると推察する。
日比野道義は少なくとも道辰が犬山に来た文化十四年(1817)以降に弟子入りし、その後薩摩へ移ったとされている。
道義の息子である日比野雷風は神刀流を興しており、現在も活動する神刀流の由来として道義についても言及されている。
宗家である日比野正晴氏のご厚意により、いくつか道義についてお話をお聞きしたので現時点での情報をまとめる。
残念ながら書物や押形などの記録は残っていなかった。
(犬山での活動)
文化十四年道辰が犬山に来てから、いつ頃弟子入りしたかは定かではないが、元治年紀作からして道俊や道暁よりも道賀に近い年代と思われる。犬山打ちは銘文のみで現物は確認できていない。
(薩摩での活動)
薩摩へ渡った理由は不明。
尾張から薩摩へ移った刀工としては天正十四年頃と言われている丸太備後守氏房を始めとし、江戸後期即ち新々刀期には青木元長や八代信高、信近らが挙げられる。尾張と犬山、薩摩の交流関係などは今後の研究が必要。
薩摩藩の為に刀を鍛えたとも言われているが、薩摩打ちの資料は確認できていない。
(埼玉での活動)
数少ない現存作、確認できた作品で甲山打ちがある。
短刀 道義/甲子二月作於甲山
刀 日比野道義謹作於武蔵吉見甲山 元治元年甲子秋分日為信香君/都留支多知以与刀久倍之伊尓敝由佐気九於比帝伎爾之曽能名楚
(大伴家持の和歌 剣刀いよよ研ぐべし古ゆ 清けく負ひて来にしその名ぞ)
少なくとも元治元年には埼玉は熊谷に移っていることがわかる。雷風の生まれが元治元年八月、二歳で父と共に中山道を江戸に上るとされていることと矛盾するが、道義のみ先んじていたのか、一度薩摩に戻って父子ともに移ったのか定かではない。
道義の信香君銘のある刀は新徴組の根岸友山所縁とされており、新徴組の為に鍛刀したことや雷風が友山に弟子入りしたことなど宗家よりお聞きする。道義は東松山の地に眠っており、東松山市の指定文化財で下記の刀が登録されている。
刀 於江府日比野道義
中山道にて薩摩から江戸に上る際や、廃刀令後には包丁などを作ったと口伝が残されていることから、
代々農鍛冶だった日比野庄右衛門(道俊)との関係が一層強く感じられる。もともと道辰に入門する前には農鍛冶だったのか、研究が必要。
刀 源道義 辨慶剣吾藤原正秀帯之
源銘の作はこれのみ。駐槌銘があるなかで、これは地名が入っていない。

Kirill A. Rivkin氏より画像提供

【道暁の作品について】
作品は太刀、刀、脇指、短刀、槍が存在する。
尾張刀工譜によると少なくとも3振りが針綱神社に奉納されている。
平成9年の特別展に出品された1振りが錆びた状態と記載され、本稿調査依頼に対しても錆びた状態と修復のための調査整理を理由に断られていることから3振り全てが錆びているとわかる。*5
また三光稲荷神社にある奉納銘の刀についても、一般に奉納品を公開していないと断られている。
尾張の鐔工である二子山則亮(二代)の作品に「犬山住道暁以鍛」「犬山住人大嶋道暁以鍛」と下地を鍛えたことが分かる添え銘が残されているほか、自身が制作した鐔も残されている。*6
「鐔や小柄を造り、刀身の彫物もある。」と解説されることもあるが彫物や小柄は未見。*7
鐔の銘は二通り、茎孔を挟んで則亮と道暁の銘があるもの、表裏に分かれて則亮と道暁の銘があるものがみられる。

「二子山住人 岩田則亮作之 犬山住人 大嶋道暁以鍛鉄」個人蔵

特別展犬山の文化財Ⅲより引用

「犬山道暁君以鍛 延寿斎則亮作」関鍛冶伝承館蔵

「犬山住大嶌道暁 以鍛鉄 二子山住人岩田則祐作之」 関鍛冶伝承館蔵
則亮の鐔下地を鍛えた刀装具は比較的資料が残っているが、道暁が自分だけで制作した作品は稀。
信家の車透かしを写した則亮鐔と似た「犬山住道暁」と銘のある鐔が犬山市文化史料館にある。
下地を鍛えるだけでなく、則亮から鐔製作について教わったのではないだろうか。






尾州犬山住道暁 小柄小刀 個人蔵
地鉄はうっすら流れた柾目風の肌で、湾れた刃文を焼く。
「州」「山」「住」の特徴から1840年代の作と推定する。
しばらく新しい作品の発見がなく、調査が行き詰っていた折に
ご厚意で連絡をいただいて購入した。
道暁は鐔以外にも、縁頭などに作品があると言われているので、
いつか出会えることを願っている。(同名 道暁銘の縁頭が存在するが京金工の別人)
天保九年戌十一月吉日 犬山住道暁 小柄小刀 個人蔵
年紀入り且つ錆もない生ぶに近い貴重な資料。
「暁」の最終角が文政頃の初期銘となるが全体的な特徴から間違いなく天保頃の銘と推定する。
天保9年の作品は今まで見たことがなく、銘の変遷を確認する上でこれ以上ない資料的価値がある。
文献や現物など確認できている道暁の作品(鐔を除き刀剣類に限り、銘文のみで実物は未確認のものも含む)は24振り。
脇指と短刀の割合が多い。地鉄は柾目肌がよく詰んで地沸つき精美な肌に締まった直刃を焼いた出来が多いが、板目流れ地沸地景が混じりやや肌立ち互の目を焼いたものもある。双方ともに度合いに差はあるが、腰元に大肌が出ている。
茎の特徴として角度に多少の違いはあるものの全て刃上がりの栗尻となっており、加州茎のように角度が急なものもある。
道幸に比べると加州茎のような形状は少ない。鑢目は勝手下がり、筋違から大筋違、切りまである。
木曽川水焠之という銘は、天保十一子月吉日とある作品が一番若い。
道暁、道幸以外の道辰一派では未見、作品数が少ないことが理由で実際には存在するのか、道暁親子だけの特色なのか不明。
「尾州犬山住人兼若 木曽川以水作之」という兼若の刀に同様の添え銘がある。加州に移った兼若とは別人。

現在確認できている24振りを銘の特徴順に並べ、実際に手に取って確認したものを青色で示した。
①道暁
平造り短刀 刃長25.2㎝ 元幅2.2㎝ 重ね0.9㎝ 岩手護国神社蔵
盛岡藩士である中嶋源蔵が切腹に使用したと伝来、盛岡市指定文化財。
盛岡市先人記念館のテーマ展示「ただひとすじに武士の道」パンフレット掲載品
盛岡市教育委員会 歴史文化課に当該短刀が掲載された書籍がないか問い合わせた結果、資料として「新編盛岡市の文化財」を頂戴した。
白黒写真であるため地鉄や銘の特徴、刃文の確認はできないが、解説では沸出来の小丁子乱れとある。*8
他の作品で丁子刃は見られないが、直刃に丁子足交りといった作風と推測される。


盛岡市先人記念館
「ただひとすじに武士の道」パンフレットより引用
新編盛岡市の文化財 盛岡市教育委員会 より引用
②道暁花押 文政八酉青陽半作(鞘書 尾州犬山住大嶌円右衛門道暁作同人奉納)
針綱神社蔵
平造り短刀 刃長九寸九分(寸尺は実物拝見は登録証、未見は書籍等の記載に従う)
針綱神社奉納品で尾張刀工譜に茎押形所載するものの、不鮮明で花押は確認できない。

尾張刀工譜より引用
③犬山住道暁
個人蔵、海外の愛好家から画像提供。
平造り短刀 表裏に棒樋と二筋樋、直ぐ調にやや湾れて刃縁が沸づく。



④犬山住道暁 文政八酉二月日
鎬造り脇指 刃長36㎝ 反り0.6㎝ 個人蔵
状態が悪く地鉄は判然としないが柾目肌が確認できる。
素人による研磨の影響もあり、減りが激しく直刃の焼きは横手までで鋒には残っていない。

