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伊賀乗重について

 

伊賀乗重・・・新次郎、新三郎、四郎左衛門、兎毛。山田浅右衛門に試し切りの技を習ったとされ、固山宗次や泰龍斎宗寛をはじめ綱俊や犬山鍛冶などに截断銘がある。

日本美術刀剣保存協会、京都府支部のHPには山城新刀押型(加藤静允氏編集)の紹介として「沢家所蔵の伊賀兎毛押形を~」とあり、伊賀による押形が現存していることがわかる。

ご厚意により山城新刀押型を拝見することができた。

序文に乾山臣伊賀兎毛とあり、乾山を「いぬやま」とるびをふる。

押型は表題通り、埋忠・堀川・三品といった山城新刀がまとめられており伊賀乗重に関しての記述は序文と添え書きにとどまる。⑦

伊賀兎毛乘(原文ママ)重 寛政四年(1792)~安政四年(1857)犬山藩士・伊賀兎毛乘和の長男。鑑刀の術は初め父乘和、その後本阿弥光栄に学ぶ。さらに初めての情報として「刀剣珍奇集」なる押形集のほか多くの押形集を遺しているとのこと。今後も注視して調べることで犬山鍛冶への糸口が見つかることを願う。

伊賀乗重の名が入った押形について私が目にした物を紹介する。(真偽は別とする)

掲載順列に関して製作年紀のある者は製作年、製作年紀が無いものは試斬の年紀をもとにした。

大変見づらいので、手隙ができ次第表にして整頓します。

「宗次 / 両車土壇拂 切手伊賀兎毛」刀剣と歴史507

「三宅琢磨 応需古河藩宗寛作 / 両車可払鑑定伊賀乗重」特別貴重刀剣目録1957

刀 「固山宗兵衛宗次作之 八割応肥田孫左衛門忠篤好 / 伊賀四郎左衛門真向八巻截断」 刀剣松本

脇指「御様之節伊賀兎毛乗重鉢鉄割 出羽国住人直胤花押 於 東武作之」 刀剣美術21

  

刀「浜部美濃守藤原寿格 / 天明七年二月日 両車土壇拂切手伊賀兎毛」  ヤフオク

 

刀「水心子正秀花押 / 文化九年二月日 同十二月廿六日於武刕千住賀兎毛乗重孔割太々土壇拂」  ヤフオク

刀「奥州會津住人中条藤助道辰作之  文政元年九月廿五日於千住乗重自乳割雁金裁断之     伊賀家旧蔵

     /文化十四丁丑年四月吉日於尾州犬山包重 之旅舎以蘇流之清水鍛焉応伊賀乗重君之需」

  

刀「古銘吉光 尾州犬山住道賀 青木丹治政保依好上ル  /  文政元年十二月廿ニ日 於武州千住雁金土壇入 伊賀兎毛乗重試之」JSAオークション

刀「本銘和泉守兼㝎 長嶋浪江永充依好上之  /  文政二卯〇年二月廿七日於武州千住 伊賀兎毛乗重太々土壇快拂」ヤフオク

刀 「雁金土壇拂使犬山臣伊賀兎毛試 /  文政三年十一月」切銘磨上げ摂津丹後守兼道​  藤代月報171

  

刀「於尾州犬山城下奥州会津住藤原道辰作之  正壽公蒙命於東都千住臣伊賀兎毛乗重二ツ朋截断 文政五年八月吉日」 成瀬家蔵 尾張刀工譜

  

脇指「文政八年丙酉十月十六日 於千住雁金落上者刃二而太々圡壇拂 伊賀兎毛試之」 無銘則光 葵美術

  

刀「大和守安定  /  文政九丙戌年十二月十八日 両捨車截断 号花車 尾州犬山臣伊賀兎毛乗重花押」山城新刀押型掲載 

刀 「秋の野一専齊固山宗次作 伊賀乗重依好 天保二二年十月日 同六未四月七日 乗重自両車快速土壇截断」刀剣美術14

脇指「伊賀乗重依好固山宗兵衛宗次作之 天保六未二月日 東都於千住長畑芳太郎 同年四月七日太々截断其刃二而乗重自両車速截断」刀剣美術14

 

刀「於東都近藤景保依好 尾陽住固山宗次作之 / 天保六未八月 於千住二ツ胴截断 伊賀乗重」左行秀と固山宗次その一類

名古屋支部鑑賞会にて上記の刀を拝見した。身幅広く鋒も延びた新々刀期の勇壮たる姿に特徴ある匂い出来の丁子、部分的に繰り返す刃文

無地肌と匂いが締まった刃文のコントラストが宗次の特徴的な出来と思っていたが、天保一桁頃の作品には本作のように板目の肌が立ったものがあるそうだ。

​茎は錆も浅く鈍い鋼色を残していた。良い物を見せていただいた。

 

刀「伊賀兎毛藤原乗重為陣刀 於東都固山惣兵衛尉宗次作之 天保六未十一月十三日於千住乗重自両車截断」刀剣美術180 第11回剣美展図録

  

刀「固山宗兵衛宗次作之 天保七年八月日  /  三ツ胴太々土壇拂切手伊賀乗重 同年十一月十三日於千住試之 」偽名 左行秀と固山宗次その一類(第17回全国大会出品目録)

  

刀「固山宗兵衛宗次作之(棟に天保八年八月十一日作之)  天保八酉八月廿一日於千住真向四ツ八巻四ツ及両車 伊賀四郎左衛門乗重截断 左行秀と固山宗次その一類

   同年十二月廿一日 山田五三郎両車真向二八巻四ツ 後藤為右衛門両車截断 (ここまで表銘)

  /  同十一年子十月十三日長畑芳太郎太々二刃 同日木俣金吾太々 寺山丈右衛門武利自太々截断」

  

刀「為早田敏行固山宗兵衛宗次勤作之  /  天保八酉年十月念七日 於東都千住伊賀乗重ハチマキ土壇拂」刀剣美術28

  

11「加藤長運斎綱俊造之 天保八年八月日  /  同年十月廿七日石野長正陣刀 於千住躰割土壇拂 切手伊賀兎毛」

脇指「伊賀乗重焼之 固山宗兵衛宗次鍛之 天保八十二月十一日乗重自両車及真向割 同九四月二十三日真向八巻三ツ太々截断」 刀剣美術28

(刀剣と歴史492では 天保八十二月廿一日となる。上記は私の間違いかもしれない。また、棟銘で天保七年二月日と入る)

刀「雲井 於東都加藤八郎綱俊造之 天保九年二月日 / 同四年廿三日於千住山田五三郎両車久保田経嘉伊賀乗重両車快截断」刀剣美術工芸社22 1957-07

刀 「武州麻布住固山宗兵衛宗次作 天保十巳亥年八月吉日 /  尾陽犬山臣伊賀乗重鑑定刃味至宜太々 深井平貞敬所持」富山県支部平成26年10月25日名刀鑑賞会

太刀「東都於飯倉固山宗兵衛宗次造之 (棟)天保十亥八月吉日  /  伊賀兎毛藤原乗富所持於千住二ツ胴及両車哉断之 門人阿武隈川宗寛彫之」

  左行秀と固山宗次その一類、刀剣と歴史488 湊川神社所蔵

刀「於東都応伊賀四郎左衛門藤乗重好 雲州住高理兵衛冬廣長信作之  /  天保十四年廿二月 於千住両車真向割三ツ八巻二ツ各快土壇截断同四月五日三ツ胴落之」

  左行秀と固山宗次その一類

刀「應伊賀藤四郎乗辰好 固山宗次作之   /  天保十五辰正月吉日同年四月五日於千住 十二才乗辰一ノ胴裁断山田五三郎太々二度截断」刀剣柴田

  

脇指「備前介宗次鍛之 源清磨焼之 / 伊賀乗重好之 嘉永元年八月日」刀剣柴田

  

刀「齋藤半蔵貞辰佩刀我子孫 厭長勿短困貧勿鬻 両車裁断其刃ニ而頭割 各土壇拂時于六拾一才            刀剣美術684                      

   / 於江府古河臣泰龍齋宗寛 嘉永三年十月日作之 東都於千住伊賀乗重」  

              

刀「鎌倉権五郎平景政後裔島田景信十一世孫同氏内匠正澄 江府在勤刻依好古河候刀師阿武隈川宗寛造之   飯田高遠堂

  / 於東都千住様太々土壇截断 嘉永五壬子八月日鑑定成瀬候衛士伊賀藤四郎」

  

刀「有故 於江府泰竜(原文ママ)斎宗造之 五月女甚五右衛門正忠所持 / 安政二乙卯年二月日 刃尤宜両車払鑑定伊賀乗重」刀剣美術3別冊1964-10     

記述の中で”同年紀(嘉永五年)の截断銘は他に三点確認され、銘文には通常の截断銘に添えて「鑑定」という言葉が記されている。”また三点の内、二点には通常経眼しない「古河矦刀師」と記されているなど、特別な注文であったことが窺知される。そして、そこに乗重が関与することは重要な意味を成したのではないか。”とあるが、まさに17の刀に「古河候刀師」、「鑑定」とある。しかしこれは前述のように藤四郎銘であることから息子乗辰であり、彼のいう三点乗重61歳の截断銘がほかにもあるのだろうか。

今回、犬山鍛冶道暁と道幸に直接関係しない伊賀兎毛に関する銘を並べたが、截断という言葉を見ても「裁断」「截断」「哉断」と三通りあった。

14の刀では乗辰で裁断、山田五三郎で截断と同じ刀でも文字が違っている。間違いなのか、もしくは当時「截断」と「裁断」では違う意味として使われたのか。

また、7の刀では「於東都近藤景保依好 尾陽住固山宗次作之」と尾陽住と珍しい住人銘も確認できた。天保五年頃に尾張に来て熱田に2~3年駐鎚したといわれていることの証明の一つであろう。改めてこの部分は別記事にて調整する。

​兎毛について調べたい方は、公益財団法人犬山城白帝文庫 研究紀要第15号白水正氏による「伊賀兎毛三代について」をご一読ください。

 

 

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