尾府三作 剱塚
尾張刀工譜 かつて存在した日本美術刀剣保存協会、一宮支部の支部長を務められた岩田與(あとう)氏の尽力によりまとめられた一冊の本。
尾府三作と呼ばれる氏房、信高、政常はもちろんのこと、志賀関や犬山鍛冶、御深井鍛冶など聞きなれない刀工の紹介等もされており、地元の刀工への想いが強く伝わってきました。
この本には、氏房と信高の菩提寺「東連寺」および政常の「西光院」についても写真で紹介されており、この度御参りを兼ねて墓石の確認に行きましたので、資料として現在の状態などを記録として残そうと思います。
名古屋市瑞穂区、昭和区に広がる八事霊園。 かつては景勝地として「天白渓」と呼ばれ大きな池や滝もあったそうです。
見渡す限り墓石が連なり、名古屋市の情報では大正初期から昭和30年代にかけて造成されており、その数約5万基とのこと。
八事駅5番出口から東連寺まで徒歩で5分ほど、東連寺から西光院までは徒歩で10分ほどで行けました。西光院だけなら八事日赤駅が近いです。
東連寺では事前に連絡をして撮影の旨を伝えていたことも有り、お話を聞くことができました。
以前は毎年、刀美会の会長である桜井良樹氏が20人程で集まって鑑賞会を行ったり御参りをしていたが、亡くなってからは一度次の取りまとめ役をする方が来たそうだが、それ以降は途絶えているとのこと。
それでも毎年数人はお参りに来るそうで、熱心に大坂から何度も来る方や、名古屋で泊まる方もいるそうです。


東連寺
西光院

西光院剣塚

東蓮寺剣塚(裏面に刀美会の文字と、「尾府三作 政常 氏房 信高」と刻されている

参照 尾張刀工譜

尾張刀工譜の写真は逆になっている
昭和40年名古屋刀美会という団体が名古屋城にて、尾張刀工展を開催。
刀工の顕彰に当り東連寺と西光院に「剱塚」(つるぎづか)と呼称した顕彰碑を建立しました。
東連寺の合同墓は境内左手、剱塚の近くにあるので分かり易く、刀工の墓石も横並びとなっていました。
以下、「」内が原文ままの彫で享年などの記載は無かった。墓石側面にも文字が見えるものもあったが確認不足の為後日改めて調査する。

右端の変わった形の物から順に記述する。
「前若州太守良屋宗善居士 天正十八年五月十一日」 若狭守氏房 享年57歳 下部に「中央刀剣会 名古屋支部 大正十二年十月建立」
「前飛州太守無参善功居士 寛永八乙亥十月廿七日」 2代飛騨守氏房 享年65歳
この形に意味はあるのだろうか、とても変わった墓石の形である。
中央刀剣会に問い合わせたところ、山田氏より存じ上げないとの回答を頂いている。
「前飛刕太守月心善海居士 元禄五壬申年五月六日」 4代飛騨守氏房 享年68歳
右から順にといったが、一つ飛ばす。
「前備州太守嶺室善雪居士 寛文六丙午十月廿五日」 3代備前守氏房 享年72歳
何故3代と4代の並びが逆なのか、意味があるのだろうか。また、3~4代の間に「蘭室友仙人居士 天和三癸亥三月廿九日」と墓石があるが、これは誰の物か不明である。尾張刀工譜の画像ではこれとは別の墓石が置いてあるようにも見え、場所が変わったのかもしれない。


「同歸 前若刕太守天窓善祐居士 一當祖念禅定尼」 若狭守氏善 年月日は無いが、延宝七年十一月十七日 享年74歳 歸の漢字は曖昧。
向かって左側面に「寛文二年壬寅九月二日」とあり、こちらは女性のものと思われる。



「宦家刀剱工 受領伯耆守 河村氏之墓」 墓石下部に「東都 源● ●」縦読みか横か不明。
右側面
「山月信高居士 利翁道剣居士 功巌道勲居士」
「●室●春大姉 ●●智照大姉 鐡●妙樹大姉」
前伯州山月信高居士 元禄二年九月廿七日 享年87歳 2代伯耆守信高
利翁道剣居士 宝永四年八月二十日 享年76歳 3代伯耆守信高
功巌道勲居士 享保十年十二月二日 享年63歳 4代伯耆守信高/信照
左側面 一部、三列に渡っている。
「寶室元●大姉 ●●●●大姉 智●●●●」
「 ●良貞大姉 ●●~」
「雪堂半布居士 鐵山宗堅居士 智山金善居士」
雪堂半布居士 天明三年三月十日 享年80歳 5代伯耆守信高/信照
前伯州太守鐵山宗堅居士 天明三年十一月十六日 6代信照 6代以降は受領していない。5代に比べて6代の没年が直近なのは病死の為である。
智山金善居士 寛政四年八月 7代信照
こうして2代から7代までの戒名があるが、女性のものは果たして妻なのか親族なのかは不明で、左側面の女性割合が多い。
【ここで蛇足ではあるが、7代について追記する】
橘井四郎信照は6代の子で、天明三年十二月二十八日に家督を蔵属し、尾張徳川家より七人扶持を受ける。
同四年二月三日には三之亟信照と改め、同五年十二月に四郎と改める。さらに同七年二月十二日には尾張徳川家に願い苗字を橘井と改姓。
同八年十二月六日には扶持を辞退し名古屋を出奔。 あまりに短い活動期間ではあるが、何か問題や罪を犯したと聞く。
それでも同じように弔われていることを後述の福永氏の著書では喜ばしく評価されている。
先日、Facebookでカリフォルニア在住の愛好家より作品を拝見したので記す。
「尾張住橘井四良信高 天明七年二月日」良は原文ままだが、郎
さらに截断について茎ではなく鞘書きとして記録されている。
「天保五年午七月廿日 御様一ノ胴壱度慰 伊藤佳左衛門截之」
「天保六年未九月三日 再御様一ノ胴壱度慰 伊藤佳左衛門截之」
慶長新刀のように身幅が広く切先も中切先となりやや延び、反りが先反りとなった豪壮な刀だった。
七代の作品はかなり珍しいので紹介しておく。

「前泉州太守芳山信廣居士」
右側面 「正徳五乙未天」左側面「十二月廿三日」 初代信廣、2代飛騨守氏房の弟子、和泉守信屋から連なる。長男は6代飛騨守氏房を名乗り、次男が2代信廣を名乗る。 千手観世音菩薩の梵字あり。
尾張刀工譜では十二月三日としているが、見る限り(廿)の文字がある。


「寛永十三年●●九月九日 前伯州太守高山慶遊居士 ●●●●●●六字程度判読不明」初代伯耆守信高
墓石の縁両端には縦に彫られた年紀があり、右側は寛永十三年ということで(丙子)が潰れた字に該当すると思われるが、戒名の慶遊居士の左隣の文字は全く判読できない。尾張刀工譜ではうっすら文字があるのがわかるが、実物は劣化激しい。順番的には2代信高なのだろうかとも考えたが、尾張刀工譜では六文字程度と明らかに初代の戒名との差があり、女性のものを思われる。判読できるのが「松●永●天●●」となる。
また、左端の縁に彫られた年紀も判読できず、後日再調査。
※追記 「松室永圭大姉」圭にはあまり自信が無い。 「寛文十二壬子三月●七日」 七日のみか、十七か判断できない。
「松室永喜大姉」 刀工遺跡巡り330選・福永酔剣著の写真では喜と見える。



上の画像であるが、尾張刀工譜に写真で紹介されていなかったが初代信高の墓の裏に小さな墓石があった。
「前伯州太守鐡山宗堅居士 節●良貞大姉」 ウ冠に急と書いてあるように見える。
「天明三癸卯十一月十六日」右側面「享和二壬戌五月二日」左側面 6代の墓だが、尾張刀工譜では天明三年十一月十七日と一日の誤差あり。
また、前述の河村氏之墓にも名前があるが、なぜ6代だけ個別でも墓石があるのだろうか。
今回、西光院にある初代政常の墓にも行ったが、現在でも納土家が代々使用されている現行の墓石であったため、撮影は控えてお線香とお参りをするだけにした。但し現状を記録しておくと、こちらは尾張刀工譜に記載の画像通り上部に横一文字にヒビがある。文字の判読は難しく読めない。
「一清頼岩居士」と本には記載されているが、それ以上の文字数であるように思う。
また、東連寺と違い合同墓ではないため、場所が分かりにくいので参考までに下に場所を示しておく。
右上青い円で囲った所が納戸家の墓で、下の円が剱塚の場所です。

尾張三作と呼ばれる刀工の菩提寺を周ることができ、とても有意義な時間であったと思います。
私などよりも詳しい方や、本当の意味で研究及び調査をされている方もいらっしゃると思いますので、私は紹介の範囲内でお伝えしました。
今後より一層尾張の刀工について興味を持って頂けるような内容であったなら幸いです。
ご意見等なにか御座いましたら、各種SNSもしくはお問い合わせページからお願い致します。 2019年2月2日実地、記録
政常の墓碑について「相州一清頼巌」「濃州心嶽是誰」を二行書きして下に居士とあると情報を頂きました。
二行書きの上に「●堂」と二文字も見えます。 これは三代美濃守との合同墓と前述の投刀工遺跡巡り330選に記載されていました。 2019年10月4日 追記
刀剣美術の随想では「一清頼違和」となっていますが、「一清頼岩」の間違いです。
大変失礼いたしました。